【(11)「2015年6/2恐怖という感情は」の続きは2016年7/8に書いて頂きました。】

2016年7/8(金)
恐怖について書いて下さいと要望をいただきましたので書いてみます。

以前感情についてシリーズで書いていた時期があって、恐怖について書き始めて、途中になっていたのを古里さんが教えてくださって、続きを書くことになったのです。

古里さんのブログを見ていただくと、私の感情についてのすべての投稿が載っているとのことで、興味ある方は、ご覧になって下さいね。

私の方は、過去にどのように書いたのか記憶していないので、一から書き直しますね。

どの感情も体内に流れる気の塊に過ぎず、それは、お天気のように変化し続けるものです。

感情に執著さえしなければ、いずれ変化して消えゆくものなのです。

台風が近づいていてタイヘンだとしても、何か月も台風が続くことは、あり得ないのです。

様々な種類の感情の中で、恐怖は、特別な存在です。体が感じる最も原初的で、生死にかかわる感情です。

それは、脳の扁桃体で反応することが解明されています。

命を失う体の恐怖に基づいています。魂に取っては、愛を失う恐怖という形を取ります。

恐怖がなければ、自信や意欲を持ちやすい傾向があります。意欲が持てないと怒りに変わる傾向があることもわかっています。

つまり、恐怖から派生して様々な主要な感情が生まれるのです。

死ぬというのはイヤなことなので、それに纏わる恐怖や怒りといった感情は、否定的な感情に分類されています。

逆に、自信や意欲や愛は、いい感情、肯定的な感情に分類されています。

感情を肯定的なものと否定的なものに分ける客観的根拠はないのですが、肉体にとって、生を肯定的なもので、死を否定的に捉えているので、その主観的根拠を魂もそのまま受け入れているのです。

そこから、魂にとっては、愛を失うことが否定的なことであり、愛に満ちることが肯定的なことなので、愛を失う恐怖を否定的に捉えて、恐怖という感情は、愛の不在を指し示すことになるのです。

ただし、

愛を感情と呼んでいいものか?

恐怖を感情と呼んでいいものか?

はなはだ疑問です。

愛と恐怖の間に様々な感情が行き交っていると考えたいところです。
愛というのは、遍く偏在している微妙なエネルギーです。

物理学的に言えばニュートリノのようなものです。あらゆる物質を通過する微妙なエネルギーです。

自覚しようが無自覚であろうが、愛は存在に溢れているのです。

実を言えば、存在は、愛でしかないのですが、肉体は、死の恐怖を持つので、魂は生を失うことを愛を失うことだと解釈して、いつも恐怖におののくのです。

身体の自由を奪うことが死を連想させるので、金や地位を失うことが恐怖と感じる人が多くいるのはそのためです。

よく考えたら、金や地位を失っても死ぬわけではないので、恐れる必要はないのですが、貧しい連想力によって、恐怖の対象となるのです。

私の父親は、小さい頃、貧しくて母親が悲しんでいる姿を見ることがかなり辛かったらしく、貧乏と借金をひどく恐れていて、真剣に働いて、家を守ってくれて、財産も残してくれたけど、その金に対する恐怖が父親を不幸にしているように思えて、金のない恐怖をリアルに体感するために、無一文で生きて、恐怖を感じないで済むことは可能かを実験してきたのです。
今回はここまで。

長い長い投稿を読んでいただきありがとうございました。

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【11】2015年6/2の投稿です。

恐怖という感情は、不快なもので、否定したくなる人が多いかもしれませんが、実は、恐怖心ゆえに、身を守ることができています。
恐怖心がなければ、ライオンが近づいて来ても、逃げずに、簡単に食い殺されて、種は、途絶えてしまっていたはずです。
恐怖の感情は、私達の身を守るために有ります。
恐怖を感じているとき、身の危険を感じて、身を守ろうと身構えるのです。
私達の身体は、進化の全過程を記憶しています。だから、ライオンを想像しただけで、恐怖を感じ身構えるのです。
ですから、恐怖心があることを問題にしては、いけません。
それは、扁桃体の自然な反応です。
問題があるとすれば、恐怖が続いて、消えないことです。
継続する感情と継続しない感情、
何が違うのでしょう?

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